山に囲まれて

能登で育った自分にとって、濃紺の日本海とその波が打ち付ける音は、日常生活の一部だった。特に冬は、陰鬱な気持ちになるほど寒々しい光景が広がる。
身近な海とは対照的に、山とは無縁の子供時代。強いて言えば、お寺の近くにある小さな丘が幼い私にとっての「山」だった。そこで自転車をかっ飛ばしていたら石に引っかかって転倒し、針で縫う大怪我をしたのが懐かしい。その傷すら勲章に感じた、やんちゃだった時分のエピソードである。今思うと「お山」ではなく「小山」の大将気取りだったのだが。
とにかく、大きな「山」というのは私とは縁遠いものであった。
そんな私の記憶に初めて、本来の「山」が登場するのはかつて両親と平湯温泉へ行った時のことだ。車窓に流れる飛騨山脈は、その裾野をなかなか見せてくれない。無限に続く緑、緑、緑……
車を運転しながら、ひたすら続く曲がりくねった山道の光景に当時の景色が重なっていく。
さて、仕事で富山へと向かうドライブの道中。
平湯温泉を通り過ぎたあたりで、小休憩だ。
蒼い山と青空と小川と……それらの作り出すコントラストのあまりの美しさに無心でシャッターを切れば、思いがけず虹まで画に収まってくれていた。
手前味噌だが、なかなかいい写真だと思う。
虹といえば、「虹の橋」の話をご存知だろうか。
先に亡くなったペットは飼い主が迎えにくるまで、虹の橋の麓で遊びながら待っていてくれるそうだ。
私も昨年、愛犬を亡くした。その際に「虹の橋」の話を知ったのだが、撮影したばかりのこの写真を見たとき、あの子のことが思い出された。
標高が高い土地柄ゆえに、空に近いからだろうか。
無宗教で特に「天国」の存在を信じているわけではないが、あの瞬間だけは、空の上にあるそんな場所を、心の底から信じたくなった。
岐阜を通り抜け、富山へ。
ドライブの道で、過去から現在へと回想が流れては風景とともに去っていく。取り囲む山脈は、いつもより少し感傷的な私をも許してくれる雄大な空気を纏っていた。
2020年11月9日
武元康明