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会津ではいまも長州が許せない!?

福島県

福島県会津若松市といえば、会津藩。戊辰戦争時は朝廷側、反政府軍に抵抗し続けた。会津藩主・松平容保は若松城(鶴ヶ城)に籠城し、この若松城から噴煙が上がるのを見た白虎隊が、城が崩れたと勘違いして自害した悲劇は、多くの小説やドラマなどでも取り上げられてきている。

また、新政府軍が戊辰戦争の戦死者たちの遺体の埋葬を許さず、半年間あまり遺体が野ざらしに放置されたこと。報復を恐れた木戸孝允らが、会津藩士たち1万7000人あまりを下北半島に追い出して斗南藩を作らせたが、不毛な土地で飢え苦しみ散り散りになる人も多かったこと。明治以降の開発から取り残されたこと。こうしたことすべてが、戦後処理を行った長州藩への憎さを増大させたと言われる。

 

一方で、会津と長州の不仲の原因をさらに調べていくと、長州側からの「恨み」も見えてくる。

話は戊辰戦争前に遡る。会津藩主松平容保は京都守護職を任され、孝明天皇から絶大な信頼を得ていた。この孝明天皇は、攘夷派ではあるものの倒幕は全く考えていなかった。そのため、過激な攘夷派の長州藩に対していい印象を持っていなかったのだ。

そこで容保は新選組を使って勤皇派の長州藩士の取り締まりを強化し、八月十八日の政変や蛤御門の変(禁門の変)で、薩摩藩とともに長州藩を討伐する。

蛤御門の変で「朝敵」のレッテルを張られた長州藩は、孝明天皇から信頼を受ける容保(つまり会津藩)に対して憎しみを感じるようになった。そうした経緯から、孝明天皇が亡くなった後の戊辰戦争では、長州藩は会津藩を徹底的に攻撃したという説もあるようだ。

 

しかし、2017年、戦後の埋葬禁止を否定する資料が発見された。資料には、新政府軍の指示で戊辰戦争後すぐに500体以上の遺体を処理した費用などが記されていた。不仲の原因の一つが揺らいだ瞬間である。

とはいえ、戊辰戦争ではそれ以上に多くの遺体があり、埋葬の交渉を重ねてきた元会津藩士の町野主水らへの許可がおりたのは約半年後のことだ。そこから若松城などに残っていた遺体の埋葬が始まった。そのため、埋葬禁止令が出ていた、という話に発展したようだ。

 

この新事実が発表されたとはいえ、会津には年長者を中心に依然として「長州憎し」といった感情を持っている方も多い。

 

人材探しでは、全く違う地域から適任者を探し出すことも多い。その際、採用や長期雇用を考えると、その地域の歴史や風土にあった人材をマッチングすることも重要である。

平成から令和へと時代を跨いだ私たちが同じ人間性のまま生きているのと同様に、江戸・明治・大正・昭和と時代を経てもその時を生きる人の心は変わらない。連綿と続く時間のなかで、いまだに根付く県民性、もとい「藩民性」もあるのだろう。その一つが会津と長州の不仲、というのはいささか悲しい気もするが、自分たちも歴史の中を生きていると感じる瞬間である。

 

2019813

武元康明

半蔵が食べた福島県のうなぎ屋

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