なぜうなぎを紹介するのか?
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*創業年は店舗ホームページや店主・従業員に確認した情報を基に、西暦表示しています。
半蔵の心得・半蔵紀行
(うなぎコラム)
出張時に食べ続けているもの
社会人になり約30年。午前は九州、午後は北海道…などと、日夜列島各地を飛び回り、東京で過ごしている日数のほうが少ない。
「出張時はご当地の美味しいものを食べる」という方もいるかもしれないが、私が社会人になってからずっと実践しているのは「うなぎ屋に行く」ことだ。
当然、単純にうなぎが好きという理由もある。しかし、もっとちゃんとした背景もあるのだ。
出張が多くなり、日本各地で食べることができて、かつ店ごとの違いを比較できる食文化は何かないだろうか、と考えるようになった。寿司屋はいたるところにあるが、海に面していない地域もあり必ずしも地元の魚を提供されるわけではない。蕎麦やうどんでは地域ごとの変化を見つけるのは難しい…この問答を続けた結果、うなぎにたどり着いたのである。
関西風は腹側から切って蒸さずに焼き、関東風は背側から切って蒸してから焼く。こうしたうなぎの調理法の違いがあるのは有名だ。とはいえ、全国で食べ比べをする程違いはないのでは?と思う方もいるだろう。しかし実は、各店でタレに使う醤油・ミリンが違い、全国で食べ比べをすると味の違いが如実に出るのだ。
また、私が出張先でうなぎ屋に出会う確率が高いということも理由の一つである。うなぎ屋は元宿場町や元城下町に多いのだが、江戸時代に栄えていた町は現代でも企業が集まりやすい。
行った店の箸袋などを持ち帰ってリストにしているので、見返す楽しみもある。
(全箸袋を公開中)
ところで、うなぎをタレで食べるようになったのは、江戸時代とされている。
うなぎ自体は昔から滋養に効果がある栄養食材として知られていて、『万葉集』では大友家持が夏痩せした友人・石麻呂さに「石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫(め)せ」(万葉・一六・三八五三)とうなぎを勧めている。この当時はかば焼きの調理法はなく、単に煮たり焼いたりしていたようだ。
それが江戸時代になるとうなぎ専門店ができてタレが誕生する。酒の肴から丼や重スタイルへと進化していったようだ。タレも、肴として醤油と酒と山椒味噌を煮詰めたものから始まって、ごはんに合うように味醂が加わるようになった。
土用の丑の日にうなぎを食べる風習ができたのも江戸時代。丑の方角を表す北北東を守る「玄武」が黒い神様だったため、「それにあやかって黒いうなぎを食べて元気を取り戻そう」とうなぎ屋の宣伝をしたところ、ヒットしたようだ。実際、うなぎだけではなく、黒ゴマ、黒豆、玄米、黒砂糖など、黒い食べ物には体にいいものが多い。
出張が続くと体調を崩しやすくなる方もいるかもしれないが、私はいたって元気。その秘訣は、各地で味わううなぎにあるのかもしれない。
2019年9月10日
武元康明
青森県の県民性
日本海側の津軽地方、太平洋側の南部地方で気質は正反対
前回、戊辰戦争で最後まで新政府軍に抵抗した会津藩の話をしたが、会津藩はその後、藩主の松平容保の息子を藩主に、下北半島(現在の青森県)で斗南(となみ)藩として表向きは再興が許されたという話を書いた。そこで今回は青森県の県民性を考えてみたいと思う。
よく言われるのが、「青森県は冬が長いため、冬期はあまり多くの人に会わないから、人見知りの人が多い。寒いために方言も短い言葉で意味が通じるので、無口な人が多い」、加えて「じょっぱり=辛抱強さ、負けず嫌い」といった県民性だ。しかし、実際のところ奥羽山脈を境に日本海側の「津軽」地方と、太平洋側の「南部」地方で気質は大きく違う。
津軽地方は、外交的で弁が立つ人が多いといわれている。冬は雪の積もる豪雪地帯ではあるものの、津軽海峡を挟んで道南の松前と交流があったり、日本海沿いに他藩との貿易が活発に行われていたりしたためと考えられている。
対して空っ風が吹く南部地方は、隣接する岩手県の県民性に近く、内向的で保守的な人が多いといわれている。つまり、最初に示した「人見知りで無口」なのは、南部地方の人たちの気質を指しているようだ。
そしてこの二つの気質の違いは、歴史とともに根付いてきたようにも考えられる。
現在の青森県がある地域一体は、古くから源氏の流れを組む南部家が治める「南部藩(盛岡藩)」だった。ところが、16世紀に南部藩の大浦(津軽)為信が南部家の内紛に乗じて謀反を起こし、津軽の土地を奪ったことで、津軽藩が出来上がった。為信はその後豊臣秀吉にも認められ、南部氏と同じ独立した大名になる。
さらに戊辰戦争では、当初は南部藩も津軽藩も奥羽越列藩同盟として幕府側についていたものの、津軽藩は新政府軍が有利とみるや、いつのまにか同盟を離れ新政府軍へ寝返った。会津城が落城してから南部藩も降伏したが、その翌日に津軽藩から領地を攻められるという悲劇まで起きたために、南部地域の人たちは「津軽地方の人は卑怯。すぐに裏切る」といったイメージが染みついている。
戊辰戦争後、官軍についた津軽藩は優遇され、幕府側についた南部藩(盛岡藩)は領土を減らされた。さらに下北半島には会津人が入植し、斗南藩が置かれることになる。
こうしてまとめてみると、時代に敏感でその時々の風にうまく乗ることに長けた津軽の人は外交的で話好きであり、一度信じた道に真面目に取り組み続ける南部の人は保守的で内向的、といった気質なのはうなずける。
その後、明治の廃藩置県では、青森県のエリアには弘前県、黒石県、八戸県、七戸県、斗南県が誕生した(黒石県とは旧黒石藩で旧弘前藩の支藩。七戸県は旧七戸藩、八戸県は旧八戸藩でかつての南部藩)。すると財政難に苦しんでいた八戸県と斗南県の知事は画策し、五県合併を新政府に申請する。五県のなかで最も裕福な弘前県と一緒になることで、財政難を緩和させようと考えたのだ。
合併の際、県名は「弘前県」だったが、県庁は県の中央にある地域のほうが交通の便も良いという理由から青森市に移り、県名も「青森県」になった。
このように、現在は同じ県でも、そもそも気質の違う敵対する藩が合併して県になっていることはままある。それぞれに自分たちの信じる正義があり、「じょっぱり=辛抱強さ、負けず嫌い」といった気質も加わって、犬猿の仲が続いていることは想像に難くない。
青森出身の方と出会ったら、話好きで外交的なら津軽地方の方、無口で内向的なら南部地方の方の可能性が高いことを念頭に置きつつ、まずは出身地を聞いて話を進めたほうが、円滑なコミュニケーションがとれるだろう。
※別コラム「半蔵紀行」でも青森県を紹介しています。
2019年6月5日
武元康明