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半蔵うなぎ街道

なぜうなぎを紹介するのか?

半蔵が持ち帰ったうなぎ屋の箸袋は、本日現在16軒です

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福島県
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  • 天心
    福島県/南相馬市
    1971年 創業
  • うなぎ 山本家
    福島県/本宮市
    1877年 創業
  • 和風レストラン うな萬
    福島県/福島市
    1929年前後 創業
  • 味処 大番
    福島県/福島市
    1974年 創業
  • 鰻処 なかざわ
    福島県/須賀川市
    1920年 創業
  • うなぎ 飛鳥
    福島県/郡山市
    1992年前後 創業
  • 大蒲焼どぜう  うなぎの半沢
    福島県/二本松市
    1934年前後 創業
  • うなぎ蒲焼  水國
    福島県/郡山市
    1961年 創業
  • うなぎ蒲焼どぜう料理  竹園
    福島県/郡山市
    1954年前後 創業
  • うなぎ 山尾
    福島県/郡山市
    1973年前後 創業
  • 割烹・うなぎ  松本楼
    福島県/いわき市
    1864年 創業
  • なかや NAKAYA
    福島県/いわき市
    2013年前後 創業

*創業年は店舗ホームページや店主・従業員に確認した情報を基に、西暦表示しています。

福島県の県民性

会津ではいまも長州が許せない!?

人材探しの際、全く違う地域から適任者を探し出すことも多いが、採用や長期雇用を考えたとき、重要なのはその地域の歴史や風土にあった人材をマッチングすることである。特に明治維新時の新政府側か幕府側かで火種を残している地域は現代でも多い。

福島県会津若松市といえば、会津藩。戊辰戦争時は朝廷側、反政府軍に抵抗し続けた藩だ。会津藩主・松平容保は若松城(鶴ヶ城)に籠城し、この若松城から噴煙が上がるのを見た白虎隊が、城が崩れたと勘違いして自害した悲劇は、多くの小説やドラマなどでも取り上げられてきた。

新政府軍が戊辰戦争の戦死者たちの遺体の埋葬を許さず、半年間あまり遺体が野ざらしに放置されたこと。報復を恐れた木戸孝允らが、会津藩士たち1万7000人あまりを下北半島に追い出して斗南藩を作らせたが、不毛な土地で飢え苦しみ散り散りになる人も多かったこと。明治以降の開発から取り残されたこと。こうしたことすべてが、戦後処理を行った長州藩への憎さを増大させたと言われる。

会津と長州の不仲の原因を調べていくと、さらに根深い史実が見えてくる。

幕末にさかのぼると、京都守護職を任されていた会津藩主の松平容保は、孝明天皇から絶大な信頼を得ていた。孝明天皇は攘夷派ではあるものの倒幕は全く考えていなかったため、過激な攘夷派の長州藩に対していい印象を持っていなかった。

そこで容保は新選組を使って勤皇派の長州藩士の取り締まりを強化し、八月十八日の政変や蛤御門の変(禁門の変)で、薩摩藩とともに長州藩を討伐する。

蛤御門の変で「朝敵」のレッテルを張られた長州藩は、孝明天皇から信頼を受ける容保(つまり会津藩)に対して憎しみを感じるようになった。そうした経緯から、孝明天皇が亡くなった後の戊辰戦争では、長州藩は会津藩を徹底的に攻撃したという説もあるようだ。

容保は孝明天皇から、感謝の手紙をもらっているが、それが明治維新すぐには公表されなかったため、戦前の教科書では「会津藩は新政府軍に歯向かった」(賊軍扱いされた)と書かれた歴史の教科書を会津の子どもたちも使用しなければならなかった。そうした経緯を知ると、昭和に入って幾度となく萩市側から会津若松市へ和解交渉が行われているが決裂しているという話もうなづける。

しかし、2017年に史実を揺るがす発見があったのをご存知だろうか。会津若松市史研究会副会長の野口信一氏が、戦後の埋葬禁止を否定する資料を発見したのだ。それは新政府軍の指示で戊辰戦争後すぐに500体以上の遺体を処理した費用などが記されたものだった。

ただし、戊辰戦争ではそれ以上に多くの遺体があり、埋葬の交渉を重ねてきた元会津藩士の町野主水らへの許可がおりたのが約半年後で、そこから若松城などに残っていた遺体の埋葬が始まった。そのため、埋葬禁止令が出ていたという話に発展したようだ。

この新事実が発表されたとはいえ、会津の、特に年配の人たちの間では、現在も「長州憎し」といった感情を持っている方も多い。

福島県全域は小藩に分かれていたためひとくくりにはできないが、少なくとも会津の人々は、義理や忠誠心を大事にしたり、上からの意見を絶対とするような意識が強い県民性と言えるだろう。

※別コラム「半蔵紀行」でも福島県を紹介しています。

2019年5月1日

武元康明

東北人気質とは違った開放的なエリアがあった

北海道、岩手県に続き、日本で3番目に面積が広い福島県は、大きく3つに分けられる。

福島県で最も内陸にあるのが、前回紹介した会津若松のある「会津」。山通りと奥羽山脈を挟んだ県の中間、内陸山間部にあるのが、郡山市や白河市のある「中通り」。そこから阿武隈高地を挟んだ太平洋沿岸、いわき市や相馬市などがあるのが「浜通り」だ。山脈に隔てられて気候や交通ルートが違ったことで、隣接する県の影響を受けやすかったこと、また藩が違ったことから、地域ごと文化や性格が異なると言われている。

今回は北側に相馬市、南相馬市、双葉郡を中心とした「相双(そうそう)エリア」を、南側にいわき市を中心とした「いわきエリア」を有する「浜通り」にスポットをあててみたいと思う。

まず、相双・いわき両エリアに共通するのは「東北地方のなかでは積雪がほとんどなく温暖な気候」だ。会津で雪が降っていても浜通りは晴天ということもあるほどの差があり、なかでもいわきエリアの日照時間は全国有数の長さだ。また、浜通りエリアは海路から関東地方の文化が入ってきた。そうした気候と立地から、「福島県のなかでも陽気でおおらか、開放的な人が多い」とされる。

そのうえで、東北地方の影響が強い相双エリアは、「温厚で粘り強いが、少々頑固な人が多い」といった側面を持ち、北関東、特に茨城県の影響が強いいわきエリアは「おおらかさのなかに、怒りっぽさも持ち合わせている」といった側面を持っているともいわれる。特にいわきは陸続きにも江戸文化が入ってきやすかったため、特出して上昇志向が高かったり、県外の人も受け入れる度量の広さもあるようだ。

とにもかくにも、「保守的で頑固で真面目な会津エリア」に比べ、小藩が分立して藩主が次々と変わった浜通りエリアには「前向きな考え方があって開放的」な人が多いというのはうなづける。

浜通りエリアは2011年に起きた東日本大震災以降で甚大な被害を受け、現在も復興途上にある。県内産の農産物や海産物の風評被害もまだ続いている。

「復興五輪」の名の元開催される来年の「東京2020オリンピック・パラリンピック」で、福島県では野球とソフトボールの競技が開催される。また、いわき市はサモア独立国のホストタウンに決定し、今後同国ラグビー代表チームの事前キャンプも行われるそうだ。浜通りエリアの人々の「前向きさ」や「おおらかさ」が復興の追い風となることを願ってやまない。

※別コラム「半蔵紀行」でも福島県を紹介しています。

2019年7月25日

武元康明

  • 天心
  • うなぎ 山本家
  • 和風レストラン うな萬
  • 味処 大番
  • 鰻処 なかざわ
  • うなぎ 飛鳥
  • 大蒲焼どぜう  うなぎの半沢
  • うなぎ蒲焼  水國
  • うなぎ蒲焼どぜう料理  竹園
  • うなぎ 山尾
  • 割烹・うなぎ  松本楼
  • なかや NAKAYA
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