なぜうなぎを紹介するのか?
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まちだ群馬県/館林市不明
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魚玉群馬県/館林市1920年以前 創業
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都屋群馬県/邑楽郡大泉町1990年以前 創業
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うなぎ茂田群馬県/前橋市2008年前後 創業
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うな久群馬県/前橋市1983年 創業
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柏屋四郎右衛門群馬県/藤岡市1960年前後 創業
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さんぷく群馬県/高崎市1990年前後 創業
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丸源群馬県/桐生市1987年 創業
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くれない群馬県/吾妻郡1934年 創業
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うなぎ小堀群馬県/邑楽郡1872年以降 創業
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うなぎ 近野屋群馬県/太田市1859年以前 創業
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野沢屋本店群馬県/太田市1914年 創業
*創業年は店舗ホームページや店主・従業員に確認した情報を基に、西暦表示しています。
半蔵の心得・半蔵紀行
(うなぎコラム)
出張時に食べ続けているもの
社会人になり約30年。午前は九州、午後は北海道…などと、日夜列島各地を飛び回り、東京で過ごしている日数のほうが少ない。
「出張時はご当地の美味しいものを食べる」という方もいるかもしれないが、私が社会人になってからずっと実践しているのは「うなぎ屋に行く」ことだ。
当然、単純にうなぎが好きという理由もある。しかし、もっとちゃんとした背景もあるのだ。
出張が多くなり、日本各地で食べることができて、かつ店ごとの違いを比較できる食文化は何かないだろうか、と考えるようになった。寿司屋はいたるところにあるが、海に面していない地域もあり必ずしも地元の魚を提供されるわけではない。蕎麦やうどんでは地域ごとの変化を見つけるのは難しい…この問答を続けた結果、うなぎにたどり着いたのである。
関西風は腹側から切って蒸さずに焼き、関東風は背側から切って蒸してから焼く。こうしたうなぎの調理法の違いがあるのは有名だ。とはいえ、全国で食べ比べをする程違いはないのでは?と思う方もいるだろう。しかし実は、各店でタレに使う醤油・ミリンが違い、全国で食べ比べをすると味の違いが如実に出るのだ。
また、私が出張先でうなぎ屋に出会う確率が高いということも理由の一つである。うなぎ屋は元宿場町や元城下町に多いのだが、江戸時代に栄えていた町は現代でも企業が集まりやすい。
行った店の箸袋などを持ち帰ってリストにしているので、見返す楽しみもある。
(全箸袋を公開中)
ところで、うなぎをタレで食べるようになったのは、江戸時代とされている。
うなぎ自体は昔から滋養に効果がある栄養食材として知られていて、『万葉集』では大友家持が夏痩せした友人・石麻呂さに「石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫(め)せ」(万葉・一六・三八五三)とうなぎを勧めている。この当時はかば焼きの調理法はなく、単に煮たり焼いたりしていたようだ。
それが江戸時代になるとうなぎ専門店ができてタレが誕生する。酒の肴から丼や重スタイルへと進化していったようだ。タレも、肴として醤油と酒と山椒味噌を煮詰めたものから始まって、ごはんに合うように味醂が加わるようになった。
土用の丑の日にうなぎを食べる風習ができたのも江戸時代。丑の方角を表す北北東を守る「玄武」が黒い神様だったため、「それにあやかって黒いうなぎを食べて元気を取り戻そう」とうなぎ屋の宣伝をしたところ、ヒットしたようだ。実際、うなぎだけではなく、黒ゴマ、黒豆、玄米、黒砂糖など、黒い食べ物には体にいいものが多い。
出張が続くと体調を崩しやすくなる方もいるかもしれないが、私はいたって元気。その秘訣は、各地で味わううなぎにあるのかもしれない。
2019年9月10日
武元康明
群馬県の県民性
稼いで家を支える女性が男性を育てた群馬県
上州名物「かかあ天下と空っ風」という言葉がある。「かかあ天下」と聞くと亭主関白の逆の意味で「夫を尻に敷く強い妻」を指しているように感じるが、群馬県においてはそうではなく、「働き者の女性が多い」という意味で称されている。かつて絹織物の産地だった現在の群馬県では、養蚕、製糸、織物の仕事は女性がつくことが多かった。そのため、家事だけでなく仕事もしっかりこなしてお金を稼ぐ働き者の女性が多かったためだという。
妻が働き者なために甘やかされている夫が「うちのかかあは天下一」と周囲にいうようになったとか、競艇、競輪、オートレースと公営ギャンブルが多い群馬県で、夫がギャンブルでお金を使い込んでも妻が稼いで家を支えていたという説もあるようだが、いずれにしても、経済面でも日常生活面でも家族を支えられる女性が多いということには違いないだろう。
群馬県は車の保持率の高さも日本一を誇るが、それは電車が発達していないからとか、首相を4人も輩出したために道路整備が進んだという理由だけではなく、女性が働きに出る家庭が多いからとも考えられるのではないだろうか。
さて、そんな群馬県の文化となっているのが、昭和22年に作られた「上毛かるた」だ。戦後間もない時代「子どもたちに明るく楽しく希望のもてるものを」と作られた郷土カルタで、内容は公募し、群馬県の歴史、文化、産業、著名人などを読んだものがまとめられている。競技大会があるため、県内の小学生は皆が暗記していて、このために群馬県民は県内のことをよく知り、郷土愛に溢れている。
江戸時代の群馬県(上野国)は徳川家康が江戸城の北の守りとして重視していた地で、複数の譜代大名が配置された。江戸時代の藩の区切りの影響が現在でも出て仲の悪さにつながっている県もあるなかで、群馬県は県庁所在地の前橋市と新幹線の駅があり経済の中心地になっている高崎市の両市はあまり仲が良くないようだが、それ以外の地域では仲が悪いという話は聞かない。その理由は、上毛かるたで皆が郷土愛を育んでいるからだろう。
さて、そんな上毛かるたで県民性を謳った札に「雷(らい)と空っ風 義理人情」がある。1996年にNHK放送文化研究所が行った調査(『全国の県民気質ー全国県民意識調査』より)でも、群馬県は関東のなかで特出して保守派が多く、義理人情に厚いという結果が出ている。「おだやかで変化のない生活をしたい」「父母を手本に生きたい」「なんでも相談したり、助け合える付き合いがよい」「地元の行事や祭りには積極的に参加したい」といった質問が全国平均より高かった。家を支える頼りがいのある女性が多いのも、義理人長に厚いせいといえそうだ。
2020年6月29日
武元康明