なぜうなぎを紹介するのか?
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うなぎ加茂川北海道/札幌市中央区2005年前後 創業
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悠北海道/札幌市中央区2018年 創業
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うな亭わがつ北海道/札幌市中央区2014年 創業
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天ぷら うなぎの店 一元北海道/帯広市1986年前後 創業
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宮川本廛北海道/札幌市中央区2003年前後 創業
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うなぎ 仲じま北海道/札幌市中央区2018年 創業
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うなぎ 天婦羅 どぜう 鯉之助北海道/函館市1953年 創業
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うなぎと道産料理 塩釜北海道/室蘭市1938年 創業
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うなぎ処 高はし北海道/函館市1977年 創業
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うなぎ・天ぷら よしなり北海道/名寄市1932年 創業
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名代 志んぼ北海道/札幌市1934年前後 創業
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鰻 二葉北海道/札幌市1948年 創業
*創業年は店舗ホームページや店主・従業員に確認した情報を基に、西暦表示しています。
半蔵の心得・半蔵紀行
(うなぎコラム)
出張時に食べ続けているもの
社会人になり約30年。午前は九州、午後は北海道…などと、日夜列島各地を飛び回り、東京で過ごしている日数のほうが少ない。
「出張時はご当地の美味しいものを食べる」という方もいるかもしれないが、私が社会人になってからずっと実践しているのは「うなぎ屋に行く」ことだ。
当然、単純にうなぎが好きという理由もある。しかし、もっとちゃんとした背景もあるのだ。
出張が多くなり、日本各地で食べることができて、かつ店ごとの違いを比較できる食文化は何かないだろうか、と考えるようになった。寿司屋はいたるところにあるが、海に面していない地域もあり必ずしも地元の魚を提供されるわけではない。蕎麦やうどんでは地域ごとの変化を見つけるのは難しい…この問答を続けた結果、うなぎにたどり着いたのである。
関西風は腹側から切って蒸さずに焼き、関東風は背側から切って蒸してから焼く。こうしたうなぎの調理法の違いがあるのは有名だ。とはいえ、全国で食べ比べをする程違いはないのでは?と思う方もいるだろう。しかし実は、各店でタレに使う醤油・ミリンが違い、全国で食べ比べをすると味の違いが如実に出るのだ。
また、私が出張先でうなぎ屋に出会う確率が高いということも理由の一つである。うなぎ屋は元宿場町や元城下町に多いのだが、江戸時代に栄えていた町は現代でも企業が集まりやすい。
行った店の箸袋などを持ち帰ってリストにしているので、見返す楽しみもある。
(全箸袋を公開中)
ところで、うなぎをタレで食べるようになったのは、江戸時代とされている。
うなぎ自体は昔から滋養に効果がある栄養食材として知られていて、『万葉集』では大友家持が夏痩せした友人・石麻呂さに「石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫(め)せ」(万葉・一六・三八五三)とうなぎを勧めている。この当時はかば焼きの調理法はなく、単に煮たり焼いたりしていたようだ。
それが江戸時代になるとうなぎ専門店ができてタレが誕生する。酒の肴から丼や重スタイルへと進化していったようだ。タレも、肴として醤油と酒と山椒味噌を煮詰めたものから始まって、ごはんに合うように味醂が加わるようになった。
土用の丑の日にうなぎを食べる風習ができたのも江戸時代。丑の方角を表す北北東を守る「玄武」が黒い神様だったため、「それにあやかって黒いうなぎを食べて元気を取り戻そう」とうなぎ屋の宣伝をしたところ、ヒットしたようだ。実際、うなぎだけではなく、黒ゴマ、黒豆、玄米、黒砂糖など、黒い食べ物には体にいいものが多い。
出張が続くと体調を崩しやすくなる方もいるかもしれないが、私はいたって元気。その秘訣は、各地で味わううなぎにあるのかもしれない。
2019年9月10日
武元康明
北海道の県民性
「多様性」「共生」を受け入れられる度量の広さ
広い土地を求め、本州から蝦夷(北海道)への移住がスタートしたのは鎌倉時代頃からとされている。
渡島半島南部に松前藩が置かれ、江戸中期からはニシンや昆布といった北海道で採れた海産物を、北前船で日本海側の各地を経由しながら大阪まで運んだ。北前船は経由地でも船の荷を売ったり現地のものを買ったりといった商売を繰り返しながら大阪との間を往復したため、各地の文化が日本に広まったようだ。例えば和食の出汁となる昆布や小魚なども、北前船がなければ広まらなかっただろうし、昆布が採れない富山県で昆布の消費量が全国一位なのも、北前船から海産物を購入するようになったことがきっかけだ。
とはいえ、北海道で大規模な開拓がはじまったのは明治時代になってからだ。道南に開拓使(北方開拓のための官庁)が置かれ、屯田兵(北海道の警備にあたる警察や部隊)が送りこまれた。
このときに日本各地から開拓者が北海道に渡ったことが、よくいわれる道民性「おおらか」「楽天的」「形式にこだわらない人柄」を育む基礎になったといえるのではないかと思う。未開拓の極寒地で日本各地からさまざまな気候、文化、風習を持った人たちが集まって生活をしていくのであれば、争うよりも皆で協力して過ごすことが必要になる。
また、極寒の地を開拓していくために女性も肉体労働しなければならなかったが、これが「男女平等」といった感覚を根付かせたことも見逃せない。そう考えると、北海道はここ最近になって聞かれるようになった「多様性」や「共生」意識を、かなり早い段階から根付かせてきた日本では珍しい土地柄と言える。
こうした道民全体に言える特徴に加えて、本州に近い玄関口の役割があった函館は、「新しいもの好き」「新しいものへの対応能力が高い」といった精神が道内のほかの地域よりも根付いていると感じる。
箱館(函館)は、ペリー来航をきっかけに日本最初の国際貿易港として開港して以降、日本初の女子修道院や日本で唯一の男子の修道院もできるなど、異文化を含めた新しい人や物や文化が入ってきやすい立地だった。そうした文化の窓口は現代まで続き、1961年には函館空港ができ、2016年3月には新青森―新函館を走る北海道新幹線も開通するなど、足の便も非常に良い。観光名所となった「五稜郭」や、百万ドルの夜景とも称される函館山からの眺望、明治時代にできた赤レンガ倉庫などの観光名所にいつの時代も観光客が絶えないのは、ダイレクトに函館に行く交通手段があるのは大きい。国内外から来る人たちを受け入れてきた度量の大きさを感じられる土地が函館なのだ。
※別コラム「半蔵紀行」でも北海道を紹介しています。
2019年8月8日
武元康明