なぜうなぎを紹介するのか?
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和寮真木宮城県/仙台市2003年 創業
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うなぎ処 中村宮城県/仙台市1978年前後 創業
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いづも宮城県/仙台市2019年 創業
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いとう宮城県/仙台市1979年以前 創業
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いわま宮城県/仙台市1978年 創業
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炭焼本味 鰻 竹亭宮城県/仙台市1965年 創業
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割烹 東海亭宮城県/登米市1875年 創業
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うなぎ 和料理 山ざき宮城県/多賀城市1967年前後 創業
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蒲焼 明ぼ乃宮城県/仙台市1868年 創業
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割烹 川うなぎ 釜めし 清川宮城県/登米市1716年 創業
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うなぎ処 いわま亭宮城県/仙台市1973年前後 創業
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開盛庵宮城県/仙台市1880年 創業
*創業年は店舗ホームページや店主・従業員に確認した情報を基に、西暦表示しています。
半蔵の心得・半蔵紀行
(うなぎコラム)
出張時に食べ続けているもの
社会人になり約30年。午前は九州、午後は北海道…などと、日夜列島各地を飛び回り、東京で過ごしている日数のほうが少ない。
「出張時はご当地の美味しいものを食べる」という方もいるかもしれないが、私が社会人になってからずっと実践しているのは「うなぎ屋に行く」ことだ。
当然、単純にうなぎが好きという理由もある。しかし、もっとちゃんとした背景もあるのだ。
出張が多くなり、日本各地で食べることができて、かつ店ごとの違いを比較できる食文化は何かないだろうか、と考えるようになった。寿司屋はいたるところにあるが、海に面していない地域もあり必ずしも地元の魚を提供されるわけではない。蕎麦やうどんでは地域ごとの変化を見つけるのは難しい…この問答を続けた結果、うなぎにたどり着いたのである。
関西風は腹側から切って蒸さずに焼き、関東風は背側から切って蒸してから焼く。こうしたうなぎの調理法の違いがあるのは有名だ。とはいえ、全国で食べ比べをする程違いはないのでは?と思う方もいるだろう。しかし実は、各店でタレに使う醤油・ミリンが違い、全国で食べ比べをすると味の違いが如実に出るのだ。
また、私が出張先でうなぎ屋に出会う確率が高いということも理由の一つである。うなぎ屋は元宿場町や元城下町に多いのだが、江戸時代に栄えていた町は現代でも企業が集まりやすい。
行った店の箸袋などを持ち帰ってリストにしているので、見返す楽しみもある。
(全箸袋を公開中)
ところで、うなぎをタレで食べるようになったのは、江戸時代とされている。
うなぎ自体は昔から滋養に効果がある栄養食材として知られていて、『万葉集』では大友家持が夏痩せした友人・石麻呂さに「石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫(め)せ」(万葉・一六・三八五三)とうなぎを勧めている。この当時はかば焼きの調理法はなく、単に煮たり焼いたりしていたようだ。
それが江戸時代になるとうなぎ専門店ができてタレが誕生する。酒の肴から丼や重スタイルへと進化していったようだ。タレも、肴として醤油と酒と山椒味噌を煮詰めたものから始まって、ごはんに合うように味醂が加わるようになった。
土用の丑の日にうなぎを食べる風習ができたのも江戸時代。丑の方角を表す北北東を守る「玄武」が黒い神様だったため、「それにあやかって黒いうなぎを食べて元気を取り戻そう」とうなぎ屋の宣伝をしたところ、ヒットしたようだ。実際、うなぎだけではなく、黒ゴマ、黒豆、玄米、黒砂糖など、黒い食べ物には体にいいものが多い。
出張が続くと体調を崩しやすくなる方もいるかもしれないが、私はいたって元気。その秘訣は、各地で味わううなぎにあるのかもしれない。
2019年9月10日
武元康明
宮城県の県民性
宮城県人の都会的感覚を育んだ「伊達者」気質
地味で控えめ、保守的なイメージの強い東北地方のなかで、仙台市のある宮城県だけが特出して「都会的でしゃれた県」といったイメージがある。県民性調査でも、郷土意識や保守性がほかの東北地方より低く、都会的な感覚を身に付けている人が多いようだ。
私はそうした県民性を裏付けるキーワードが「朝廷文化」と「伊達政宗」、「地理的条件」なのではないかと考えている。
まず、朝廷文化だが、奈良時代から平安時代にわたり、仙台平野には朝廷が東北地方の中心地として建てた多賀城があった。そのためこの地域は早くから朝廷文化の影響を受けており、新しいものへの抵抗感が少なかったことが予想される。
加えて、安土・桃山から江戸時代にかけては「伊達家」の存在が大きな影響を与えた。
粋でおしゃれな男性を称する「伊達者(だてしゃ、だてもの)」という言葉は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のために、伊達政宗率いる軍勢が上洛する際、派手ないでたちをしているのに驚いた京の人々によってつけられたというのは有名な話。
では、政宗の感性はどこで磨かれたのだろう。「赤岩州五、北吉洋一『藩と県 日本各地の以外なつながり』(草思社)」によると、仙台に拠点を置く前の政宗は、米沢で家督を継ぎ、豊臣秀吉から国替えを命じられて岩出山(宮城県大崎市)で過ごす。この岩出山の12年間のうちに朝鮮出兵のための上洛も果たすのだが、実は当時の政宗は岩出山よりは上方で過ごすことが多かった。その際に豪華絢爛な桃山文化に触れ、傾倒していったことで感性が磨かれていったようだ。
徳川家康に仙台城築城の許しを得て以降、仙台に上方の職人を呼び城づくりや寺社の建造をしたため、現在も仙台市には桃山期建築の寺社が残る。そして仙台藩士の伊達者気質は領民にも広がっていったのではないだろうか。
とはいえ、一般的に地方に行くほど、都心部とそれ以外の地域で県民性に違いが出るものだ。宮城県で大きな違いがみられにくいように感じるのは、「地理的条件」があるように思う。
宮城県はほかの東北地方よりも温暖で、そこまで雪深くもない。江戸時代には江戸で消費される米の三分の二が宮城県のエリアで作られていた。さらに三陸海岸で獲れる豊富な魚介類や、それを材料に作られる練り製品など、豊かな食資源があった。そうしたことから、武士にも農民にも比較的自由が許された。余裕のある暮らしがあれば、新しい文化への好奇心も生まれやすくなる。江戸から帰ってくる船にはお茶や古着など、江戸のものが持ちこまれ、庶民が江戸の文化に触れる機会も少なくなかっただろう。
明治時代以降も、仙台には東京の次に高等学校が作られ、旧日本軍の師団も東京に次いで仙台に置かれた。そして現在、県の人口の47%以上が仙台市に、65%以上が仙台都市圏に居住していて、県民の多くは都市部に集中している。連綿と続く時代のなかで、さまざまな新しい文化へ触れたいという意識が、多くの県民に根付いている証拠ともいえるのではないだろうか。
2020年10月23日
武元康明