なぜうなぎを紹介するのか?
-
本吉屋佐賀県/佐賀市1945年 創業
-
うなぎ蒲焼 本家 木原鰻屋佐賀県/佐賀市1960年前後 創業
-
大橋うなぎ屋佐賀県/佐賀市1921年前後 創業
-
専門店 田中屋うなぎ佐賀県/鳥栖市1965年前後 創業
-
瀬田焼 本庄うなぎ屋佐賀県/佐賀市1972年前後 創業
-
うなぎ すき焼 竹屋佐賀県/唐津市1968年以降 創業
*創業年は店舗ホームページや店主・従業員に確認した情報を基に、西暦表示しています。
半蔵の心得・半蔵紀行
(うなぎコラム)
出張時に食べ続けているもの
社会人になり約30年。午前は九州、午後は北海道…などと、日夜列島各地を飛び回り、東京で過ごしている日数のほうが少ない。
「出張時はご当地の美味しいものを食べる」という方もいるかもしれないが、私が社会人になってからずっと実践しているのは「うなぎ屋に行く」ことだ。
当然、単純にうなぎが好きという理由もある。しかし、もっとちゃんとした背景もあるのだ。
出張が多くなり、日本各地で食べることができて、かつ店ごとの違いを比較できる食文化は何かないだろうか、と考えるようになった。寿司屋はいたるところにあるが、海に面していない地域もあり必ずしも地元の魚を提供されるわけではない。蕎麦やうどんでは地域ごとの変化を見つけるのは難しい…この問答を続けた結果、うなぎにたどり着いたのである。
関西風は腹側から切って蒸さずに焼き、関東風は背側から切って蒸してから焼く。こうしたうなぎの調理法の違いがあるのは有名だ。とはいえ、全国で食べ比べをする程違いはないのでは?と思う方もいるだろう。しかし実は、各店でタレに使う醤油・ミリンが違い、全国で食べ比べをすると味の違いが如実に出るのだ。
また、私が出張先でうなぎ屋に出会う確率が高いということも理由の一つである。うなぎ屋は元宿場町や元城下町に多いのだが、江戸時代に栄えていた町は現代でも企業が集まりやすい。
行った店の箸袋などを持ち帰ってリストにしているので、見返す楽しみもある。
(全箸袋を公開中)
ところで、うなぎをタレで食べるようになったのは、江戸時代とされている。
うなぎ自体は昔から滋養に効果がある栄養食材として知られていて、『万葉集』では大友家持が夏痩せした友人・石麻呂さに「石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫(め)せ」(万葉・一六・三八五三)とうなぎを勧めている。この当時はかば焼きの調理法はなく、単に煮たり焼いたりしていたようだ。
それが江戸時代になるとうなぎ専門店ができてタレが誕生する。酒の肴から丼や重スタイルへと進化していったようだ。タレも、肴として醤油と酒と山椒味噌を煮詰めたものから始まって、ごはんに合うように味醂が加わるようになった。
土用の丑の日にうなぎを食べる風習ができたのも江戸時代。丑の方角を表す北北東を守る「玄武」が黒い神様だったため、「それにあやかって黒いうなぎを食べて元気を取り戻そう」とうなぎ屋の宣伝をしたところ、ヒットしたようだ。実際、うなぎだけではなく、黒ゴマ、黒豆、玄米、黒砂糖など、黒い食べ物には体にいいものが多い。
出張が続くと体調を崩しやすくなる方もいるかもしれないが、私はいたって元気。その秘訣は、各地で味わううなぎにあるのかもしれない。
2019年9月10日
武元康明
佐賀県の県民性
武士道の精神でアピール下手?地味さが目立つ佐賀県
倒幕から明治維新を経て明治政府の礎を築いたとされる「薩長土肥」。「薩摩、長州、土佐」ばかりが注目されがちだが、最後の「肥」とは「肥前」であり、地域は現在の佐賀県と長崎県(対馬市・壱岐市を除く)にあたる。第八代内閣総理大臣で早稲田大学を創設した大隈重信や、司法制度整備、民法制定などに尽力した江藤新平は佐賀県出身者だ。
「有田焼・伊万里焼、波佐見焼、唐津焼」といった焼き物、日本最大級の弥生時代の集落を残した「吉野ヶ里遺跡」、ユネスコ無形文化遺産にもなっている祭り「唐津くんち」、「呼子のイカ」など、名前を聞けば「ああそうか。それも佐賀県ですね」と言われるような有名なものがたくさんある。
それにもかかわらず、「九州九県のなかでも一番最後に名前があがる地味な県」といわれるし、数年前にはお笑いタレントのはなわさんが佐賀県にまつわることを自虐的に歌い紅白出場までしたが、それでも佐賀県が九州一目立つことはまずない。
なぜ佐賀県は地味なのか、それは県民性のあらわれではないだろうか。
佐賀県民の県民性は「真面目、保守的、頑固、融通が利かない、几帳面」「倹約」などといわれる。これは江戸時代初期の1600年代から幕末まで佐賀藩を納めていた鍋島家の影響が大きい。
二代目藩主の側近・山本常朝の口述を田代陣基に聞き書きさせた『葉隠(鍋島論語)』は、「鍋島家への奉公を人生の第一の目的とし、主君への忠誠のなかに安心立命の境地を見出そうとするもの」(祖父江孝男『県民性の人間学』ちくま文庫より)だ。佐賀県では戦時中までこれを学校で唱えさせていた。また、江戸時代は藩士の他藩との交流を禁じた「鎖国藩」で、また10代藩主の直正の頃は藩士や庶民に倹約を徹底させた。
つまり、保守的で律儀で融通が利かない性格や質素倹約の生活は、鍋島家への忠誠を尽くした武士道の精神が、庶民にも行き渡った結果といえるわけだ。
さて、最後に鍋島家のトリビアを。東京・渋谷の一等地「松濤」のいわば生みの親が鍋島家ということを、どのくらいの人がご存知だろうか。最後の藩主となった鍋島直大は、明治に入ってから紀州藩徳川家下屋敷だった土地を買い上げ、失職した武士たちを雇って「松濤園」という名前の茶園を作った。関東大震災後に住宅地として分譲されることになるが、その際、「松濤」がそのまま地名として採用された。松濤にある「松濤鍋島公園」は、現在は渋谷区が管理しているが、松濤園の一部を公園にしたものだ。
2020年7月27日
武元康明