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半蔵うなぎ街道

なぜうなぎを紹介するのか?

半蔵が持ち帰ったうなぎ屋の箸袋は、本日現在8軒です

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富山県
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  • うなぎ活魚 とろ一
    富山県/富山市
    ★閉店★ 創業
  • 炭焼うなぎ・ひつまぶし うな一
    富山県/富山市
    2011年前後 創業
  • 長次郎 膳
    富山県/黒部市
    2007年 創業
  • 炭火焼き食事 南幸
    富山県/南砺市
    1998年 創業
  • 小川屋
    富山県/小矢部市
    1988年以降 創業
  • 鰻料理 うな富
    富山県/富山市
    1979年前後 創業
  • 割烹 宇な義
    富山県/富山市
    1969年 創業
  • うなぎ川豊
    富山県/富山市
    1935年 創業

*創業年は店舗ホームページや店主・従業員に確認した情報を基に、西暦表示しています。

富山県の県民性

置き薬商人の歴史から、富山の県民性を考える

富山県の産業といえば、「富山の置き薬」でも知られる医薬品をイメージするのではないだろうか。そこで歴史を紐解いてみると、配置薬ビジネスのきっかけとなったのは富山藩第二代藩主の前田正甫(まさとし)が、参勤交代で都城した際の出来事のようだ。江戸城で腹痛を訴えた三春藩主の秋田輝季(としすえ)に、正甫が懐中薬の「反魂丹(はんごんたん)」を飲ませたところ、たちまち平癒したことで他藩からも領内での薬の販売が許可されたという。

そもそも、この薬のもとになった薬は、室町時代に和泉国の代官が唐人から処方を学び、代々作っていたものだ。その代官の子孫が岡山藩主・池田忠雄のお抱え医の万代常閑で、富山藩主の前田正甫は常閑を招いて処方を教わり、富山藩が独自で製造するようになったのが反魂丹である。

富山藩はもともと加賀藩だったが、現在の富山県のなかでも婦負(ねい)郡と新川(にいかわ)郡の一部の地域10万石を分藩して富山藩ができた。
しかし領内には稲作に適した領地が少なく、冷害や水害も多かった。対抗策として農業奨励政策が次々と打ち出され、農民は食事から住居、衣類に至るまで生活制限を受けたが、結局藩は財政を立て直すことができなかった。加えて熱心な真宗信者が多く人減らしをしなかったために人口が増え続け、長年にわたる財政難に陥っていた。正甫はさまざまな事業で財政を立て直そうとしていたようなので、全国への売薬業は渡りに船だったかもしれない。

とはいえ、幕藩体制下での他藩への商いは例外中の例外で歓迎されるものではない。他藩からの販売者を怪しんだり、商品を買うことに抵抗感を示す客もいただろう。そこで薬売りたちは、無料で薬箱を設置して使用した薬代金だけを翌年に集金する配置薬の制度を作った。また、トラブルを回避するために営業する地域別にグループを作ったり、「営業した地域への移住の禁止」「ギャンブルや歓楽街への立ち入り禁止」といった規定を作ったりして、全国における信用を勝ち取っていったという。
なかでも現在のビジネスでも通用すると感じるのが、「商いの信用(不正をしない)」「薬の信用(高品質薬の提供や開発)」「人の信用(信頼関係)」からなる「信用三柱」の精神だ。とりわけ「人の信用」が大事とされ、相談にのったり、アドバイスをしたり、励ましたりといったことを続けることで顧客との信頼関係が生まれていった。

道中に盗賊に襲われる危険性もある。無償で薬箱を設置できても、翌年の集金が困難ということも予想できる。リスクが多いなかでも配置薬ビジネスが続いたのは、富山藩の経済の混乱を耐え抜いて培われた精神と、懐中に仏を忍ばせ、「仏が見ていてくださる」と念じながら旅を続ける富山の薬売りたちの真面目さがある。それが現在に続く「勤勉」「合理主義」「倹約家」といった県民性を作ったと考えられる。

※別コラム「半蔵紀行」でも富山県を紹介しています。

2019年5月10日

武元康明

  • うなぎ活魚 とろ一
  • 炭焼うなぎ・ひつまぶし うな一
  • 長次郎 膳
  • 炭火焼き食事 南幸
  • 小川屋
  • 鰻料理 うな富
  • 割烹 宇な義
  • うなぎ川豊
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